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無香は朔夜に薫る ―妹が婚約者を寝取った夜、私は冷血軍神の「運命の番」に刻まれた―
無香は朔夜に薫る ―妹が婚約者を寝取った夜、私は冷血軍神の「運命の番」に刻まれた―
Author: 板野かな

第1話 散りゆく約束

Author: 板野かな
last update publish date: 2026-08-26 23:06:38

 帝都の夜は、春の終わりを惜しむように淡い霞かすみをまとい、華族会館の窓々からこぼれる灯あかりが、磨き抜かれた石畳へ黄金こがね色の帯を落としていた。

 正門には艶つややかな黒塗りの自動車が並び、その傍らでは飾り金具かなぐを輝かせた馬車が静かに主人を待っている。

 文明開化の息吹を感じさせる機械の音色と、古き都の雅みやびを残す馬の蹄ひづめの音とが一つの夜へ溶け合う景色は、この太正たいしょうという時代そのものを映しているようでもあった。

 大広間へ足を踏み入れると、幾重にも吊るされた水晶のシャンデリアが星空のような光を降らせ、軍服に飾られた勲章は鋭くその輝きを返し、婦人たちの絹のドレスや色鮮やかな訪問着は、円舞曲の旋律に合わせるようにゆるやかな波を描いている。

 そして、この場所を満たしているのは光だけではなかった。

 薔薇の香水。

 菫すみれの化粧香。

 白檀びゃくだんを焚き染めた羽織。

 沈香じんこうを忍ばせた袂たもと。

 人は皆、それぞれの歩んできた歳月を、香りという形で身にまとっている。

 桐生きりゅう麗香れいかは、その幾重にも重なる香りへ静かに意識を澄ませ、小さく息を吐いた。

 彼女は、生まれつき「契ちぎりの香か」を持たない。

 この会場にいる誰一人として、彼女から運命の香りを感じ取ることはできない。

 けれど麗香は、それでも香りを愛していた。

 誰もが彼女を「欠陥令嬢」と呼ぼうとも、香りだけは嘘をつかないことを知っていたから。

 沈香は沈香として薫り、梅は梅として春を告げ、人の心もまた、言葉より先に香りとなって胸へ届くことを、幼い頃から香道こうどうを通して知っていたからである。

 今日は、その香りに満ちた夜の中でも、とりわけ特別な一夜だった。

 桐生家と九条くじょう家。

 二つの名門を結ぶ婚約が、今宵こよい正式に発表される。

 幼い頃から続いてきた約束が、ようやく形になる夜だった。

 鏡へ映る自分の姿を見る。

 薄紅うすべに色の着物には枝垂しだれ桜が銀糸で刺繍され、帯留めには小さな真珠が一粒だけ添えられている。

 華やかな夜会には慎ましすぎる装いかもしれない。

 それでも、亡き母が「品とは飾りではなく、その人の心に宿るものですよ」と教えてくれた言葉を、麗香は今も大切に守り続けていた。

「麗香様。本日は本当にお綺麗でございます」

 侍女が嬉しそうに微笑む。

 麗香も穏やかに微笑み返した。

「ありがとう。あなたのおかげです」

 その声は落ち着いていた。

 けれど胸の奥では、小鳥が羽ばたくような鼓動が、ずっと鳴り続けている。

 今日という日を、どれほど待ち望んだことだろう。

 母を亡くした日から、桐生家での暮らしは少しずつ変わっていった。

 継母が迎えられ、珠緒たまおが家族となり、屋敷には新しい笑い声が満ちるようになった一方で、自分の居場所だけは少しずつ狭くなっていった。

 契ちぎりの香かを持たない娘。

 番つがいを得られない令嬢。

 家の役に立たない娘。

 そんな囁きは、屋敷の廊下でも、社交界でも、いつしか聞き慣れたものになっていた。

 それでも耐えられたのは、たった一人、自分を変わらず見てくれる人がいたからだった。

 九条くじょう慎太郎しんたろう。

 まだ幼かった頃、庭の片隅で泣いていた自分へ、彼は何も言わず白い手巾を差し出してくれた。

『麗香。君には香りなんて関係ない。俺は君だから好きなんだ』

 その言葉は、長い冬を越えて咲く椿つばきのように、麗香の胸の中で静かに生き続けていた。

 だから今日まで歩いて来られた。

 だから、誰よりも今日という日を待ち続けてきた。

 彼となら、生きていける。

 香りがなくても。

 番になれなくても。

 愛だけは本物だと信じていた。

 そう思えたのは、慎太郎だけではない。

 珠緒もまた、この婚約を心から祝福してくれていると信じていたからだった。

 継母が家へ入って以来、姉妹として肩を寄せ合うような日々ばかりではなかった。

 それでも珠緒は、麗香の前ではいつも柔らかく微笑み、小さな悩みごとを打ち明けてくる愛らしい妹だった。

 夜会の支度を整えていた先刻も、帯を締め終えた麗香を見るなり、珠緒は目を輝かせて言った。

『今日は、お姉様が世界で一番お綺麗ですわ。慎太郎様も、きっと見惚みとれてしまわれます』

 その無邪気な祝福が嬉しくて、麗香は照れながら「ありがとう」と笑い返した。

 妹も喜んでくれている。

 亡き母が天から見守ってくれている。

 そして今日からは、大切な人の隣で歩いていける。

 そう信じて疑わなかった。

 ほどなくして、一人の使用人が恭うやうやしく頭を下げる。

「麗香様。九条様が控室でお待ちでございます。婚約発表の前に、お二人だけでお話がおありとのことです」

「ええ。すぐ参ります」

 麗香は小さく頷き、静かな廊下へ足を踏み出した。

 大広間から流れてくる円舞曲は少しずつ遠ざかり、磨き抜かれた床を歩く自分の足音だけが、夜の静けさへ細く溶けていく。

 控室へ近づいた、その時だった。

 ふと、甘く濃密な香りが鼻先をかすめる。

 花でも香木でもない。

 胸の奥をじわりと熱くするような、番を持つ者だけが放つ香。

 それへ重なるように、小さく息を漏らす声が聞こえた。

 麗香は思わず足を止める。

 違う部屋なのかもしれない。

 そう思おうとしても、その香りは間違いなく、慎太郎が待っているはずの控室の向こうから漂ってくる。

 胸騒ぎがした。

 震える指先で、そっと扉へ触れる。

 音を立てぬよう静かに開くと、最初に目へ飛び込んできたのは、床へ落ちた白い手巾だった。

 幼い日に泣いていた自分へ、慎太郎が差し出してくれたものと同じ刺繍。

 その向こうで、一つの小柄な影がゆっくりと振り返る。

 純白の洋装は肩から滑り落ち、雪のように白い肩と背があらわになっていた。

 乱れた髪がその肌へ黒く流れ落ち、細い指先は慎太郎の胸元を頼るように掴んでいる。

 つい先ほどまで、自分の幸せを誰より喜んでくれていたはずの妹――珠緒が、慎太郎の腕の中で静かに微笑んでいた。

「……あら、お姉様」

 珠緒は驚く様子もなく、小さく麗香の名を呼ぶ。

 その頬は淡く紅潮し、乱れた襟元を隠そうともしない。

 ——どうして。

 その姿を見た瞬間、麗香の胸の奥で何かが音を立てて崩れた。

 今の今まで処女おとめと思っていた妹は、慌てて身を隠すことも、羞恥に顔を伏せることもなく。

 それどころか珠緒は、まるでそこへ麗香が現れることを知っていたかのように、慎太郎へさらに身を寄せ、その腕へ自ら身体を預けてみせた。

 ——まさか。

 ——最初から、この光景を私に見せるつもりだったの……?

 そんな考えが脳裏をよぎる。

 信じたくない。

 けれど、珠緒の穏やかな微笑みだけは、あまりにも静かで、あまりにも計算され尽くしているように見えた。

「……た、珠緒」

 ようやく声になったその名は、自分でも驚くほど細く震えていた。

 慎太郎が顔色を変える。

「麗香、違うんだ。これは――」

 何が違うのだろう。

 目の前にあるもの以外に、何を信じればよいのだろう。

 珠緒は形だけ申し訳なさそうに睫毛まつげを伏せ、それでも唇には儚い笑みを浮かべたまま、小さく囁ささやいた。

「お姉様……ごめんなさい。でも、もうこの方は私を選ばれたの」

 その一言で、世界から音が消えた。

 円舞曲も。

 人々の笑い声も。

 夜会の華やぎも。

 すべて遠ざかり、耳へ残ったのは、自分の心臓がひび割れるような音だけだった。

「麗香、話を聞いてくれ」

 慎太郎がこちらに向き直り、何かを取り戻そうとするように一歩踏み出す。

 その手が届くよりも早く、麗香は絹の袖をわずかに引いた。

 幼い日に向けられた優しい眼差しも。

 雪の朝に交わした約束も。

 未来を語り合いながら幾度となく重ねてきた言葉も。

 硝子ガラス細工が音もなく砕け散るように、胸の奥で一つずつ形を失っていく。

「……失礼いたします」

 それだけ言うのが精一杯だった。

 麗香は踵きびすを返し、廊下を駆け出した。

 呼び止める声が背中へ降り注ぐ。

 けれど一度も振り返ることはなかった。

 華族会館を飛び出した瞬間、春の夜風が熱を失った頬を鋭く撫でていく。

 涙は流れない。

 あまりにも悲しみが深すぎると、人は涙さえ忘れてしまうのだと、その時初めて知った。

 どれほど走ったのだろう。

 灯の多い大通りを離れ、人影のない石畳の裏路地へ迷い込んだその時だった。

「居たぞ」

「こいつだ」

 低く押し殺した男たちの声が、闇の向こうから響く。

 振り返れば、数人の男たちがゆっくりと路地の入口を塞ぎ、逃げ道を閉ざすように歩み寄ってくる。

 その目に宿る光は、獲物を見つけた獣そのものだった。

 麗香は思わず後ずさる。

 しかし背中へ触れたのは、夜気を吸って冷え切った煉瓦れんがの壁だけだった。

 左右へ身をかわす余地はなく、男たちの足音だけが石畳へ重く響く。

 その距離が一歩、また一歩と縮まってくるのを、麗香は息を潜めながら見つめることしかできなかった。

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